公開: 2019年7月29日
更新: 2019年7月xx日
現代の日本人に継承されている基本的な性質が形成されたのは、日本史では、縄文時代が終わり、弥生時代が始まったころだと考えられます。その最大の原因は、ある程度の数の大陸系の人々が、日本列島の西側の地域、北九州から山陰地方に渡来したことでしょう。遺伝的にも縄文時代の日本人とは少し異なる遺伝子を持った、少し背が低く、華奢な骨格を持った人々が、現在の福岡県から山口県の海岸にたどり着き、定住したためです。この人々は、大陸の進んだ文明を知っていた人々で、農耕文化を持っていたとされています。つまり、大きな集団を作り、お互いに助け合って生きる人々でした。この大陸から来た人々と、もともとその地域に定住していた日本の縄文人が混血して、現代の日本人につながる遺伝子を持った人々が生まれたようです。DNAを調べると、中国大陸の南部をルーツとする遺伝子を持った人々と、蒙古から朝鮮半島を経由して日本列島に渡ってきた人々の遺伝子を持った人々をルーツとした弥生人がいたようです。現代の日本人に残る縄文人の遺伝子は20パーセント善晤のようです。さらに、現代の日本人に残るネアンデルタール人の遺伝子も、2パーセントから3パーセント程度あるようです。つまり、現代の日本人は遺伝的に見ると、大部分が大陸から渡ってきた人々のようです。しかし、現代の日本人と言っても、地域性が強く、沖縄や東北や北海道の一部には、縄文人の遺伝子の影響を強く残している人々もいるようです。最近、北海道のある島で見つかった古代人(縄文人)の人骨から採取されたDNAの分析から、縄文人の目の色、肌の色、頭髪の質などが分かっていて、目の色は茶色、肌の色は白く、シミができやすく、頭髪は縮れ毛であったことなどが発表されています。これらは、ネアンデルタール人の影響が強い傾向を示しています。現代にも見られる人々でいうと、北海道のアイヌの人々に近いようです。つまり、アイヌ人は、縄文人の性質を残している人々ではないかと考えられます。文化的な影響を考えると、日本列島の西の端に到着した大陸系の人々は、その地に定着して、その地の縄文人と混血して、大きな村をつくり、稲作を広めました。稲作によって安定して食料を生産できるようになったため、この新しい日本人は、より大きな村を作り、周りに残っていた縄文人の村を攻めて、場合によってはその村の人々を殺して、土地を手に入れたようです。
このような戦争を繰り返して、日本中に、新しい日本人たちの大きな村がうまれました。例えば、北九州の大きな村、山陰地方の大きな村、山陽地方(現在の岡山県)の大きな村、近畿地方の大きな村などができました。さらに、南九州や関東以北の地域に、古い縄文人系の人々の小さな村が集まってできた部族も残っていたようです。近畿の勢力は、山陽地方の部族を併合し、さらに山陰地方の部族との戦いに勝って、巨大な村に成長したようです。この村が、後に大和の大王を中心とした勢力になったようです。中国大陸からの人々が、長い年月の間、次々と渡ってきていた北九州では、中国大陸における政治情勢の影響を受けて、中国の皇帝に貢物を献上するなどして、近畿の勢力とは異なる発展をしていたようです。その結果、大和の勢力と九州の勢力が対抗するようになったと思われます。この二つの勢力が和合して一つになったのかどうかは分かりません。結果としては、最終的に近畿地方の勢力を中心とした古代国家が成立したようです。それが、大和の大王が治めた古代国家です。そこでは、大王を頂点として、いくつかの豪族が支配する政治が行われ、特に、朝鮮半島から最新の技術や文化を持って渡ってきた有能な人々をまとめていた蘇我氏が力を持ち始めたようです。当時の日本では、文字がなく、政治を円滑に進めることが難しい状態にありました。蘇我氏は、漢語(中国語)を使って、政治を行うやり方を推進して、成果を出したようです。しかし、蘇我氏には、大きな武力がありませんでした。大王の近親者で、蘇我氏の台頭に脅威を感じていた人々と、一部の豪族の中で、武力を持っていた人々が密かに反乱を計画し、蘇我氏の頂点に立っていた蘇我入鹿を殺し、反乱を成功させました。その反乱が、「乙巳の変(いっしのへん)」です。皆さんの多くは、「大化の改新」と習ったかもしれません。大化の改新は、その反乱の後、中大兄皇子が天智天皇に即位し、いくつかの行政改革を行った結果を含めて名づけられた改革を指しています。とは言え、中大兄皇子が中心となって行った乙巳の変の後に、大化の改新として行った改革は、蘇我氏が行なおうと計画していたものを少し、変えたものにすぎませんでした。この日本的な歴史の成立も、きわめて日本的なものだといえます。
天智天皇が即位して、中国を真似て、日本全体が一つの国家として運営されるようになって以降、明治維新を経て、今日までの日本人に根付いた文化的な特徴は、大きく変わっていないようです。現在の状況を変えようとせず、そのまま受け入れようとする傾向は、すでに天智天皇やその弟、天武天皇の時代に確立され、藤原氏が日本の社会に定着させた文化・風習にそったものだと言えるでしょう。